大飯原子力発電所の再稼動が決定された。
新聞やテレビなどのマスコミは、原発の再稼動は安全なのか、安全でないのかについて大きく取り扱っている。またほとんど全ての政治家も「安全が確保された」「安全は確保されていない」の観点から再稼動賛成・反対の意見を述べている。
どうしてマスコミも政治家も本当に重要なことを誰も言わないのだろうか?? 日々その思いがつのりつつある中での大飯原発再稼動決定のニュースを見て、どうしても書き残しておきたいと思ったことがある。
原子力発電所の再稼動に関して、原子力発電所は「安全」「安全ではない」などの論点は、どうでもいいことだと思う。そもそも原発施設が安全でなければ、それを稼動させる人たちは誰一人原発施設に行かないのは明白である。たとえ電力会社の社員であっても、その下請け、孫請けの社員であっても、原発施設が安全でなければ誰も行かないわけです。ということは少なくとも稼動させる時点での原発は安全なわけです。
関西経済圏の電力供給という大義名分があり、原子力発電所を誘致・立地したおおい町は、先代の住民が苦渋の選択の中から札束に命を売ってしまい、その後は原発関連から拠出される札束が町の予算の6割、さらには住民の収入は原発に直接、間接的に大きく依存する体系にしてしまった現在、関西圏の電力が不足するかしないかに関係なく、また原発が安全か、安全でないかに関係なく、原発をとにかく稼動させて、東日本大震災前と同様の札束が町の財政に、住民の生計に入ってくることだけを考えているだろうということは、冷静にニュースを見ていると見えてきてしまう。まるで映画「ロード・オブ・ザ・リング」の主人公のように、札束(リング)の魔力から逃れられない者としかいいようがないが、おおい町の子供たちには何ら責任のないことで、一番の被害者だと思う。でもその子供たちの親は誰も原発稼動に反対しないし、選挙で原発反対の意思表示も少ないわけで、未来を担う子供たちにとっての安全・・・・、どうなんだろうか。
しかし誰も言わない「本当に危険なこと」とは・・・・、
それは原子力発電所を稼動させれば、必ず「使用済み核燃料」が製造されるということ。「使用済み核燃料」とは聞こえがいいが、いわゆる危険極まりない「核のごみ」「核廃棄物」のことである。東日本大震災後、都会ではほんのわずかな放射能を屋外で検知するたびにギャーギャー騒いでいるが、その数値とは比べようもないとてつもない数値の放射能を作っているわけです。
そしてそのゴミの処分方法は人類の英知をもってしても、今だその解決方法が不明だということ。つまり核のゴミの処分方法がないということが、人類にとって、いや地球上の全ての生命にとって危険極まりないことだと思いませんか。
原子力発電所を稼動させれば核のゴミが作られることは最初からわかっていることなのに、その処分方法はについては「今はその方法はわからない。でもきっと将来、子供たち、孫達、ひ孫達、いやその先の子孫がきっと、必ず、多分処分方法を見つける、見つけるはずだから・・・・」という理論で、核のゴミを世界中の原子力発電所で今日もせっせと作り続けています。
核のゴミの処分方法がわからない人類は、目の前にある核のゴミを地中深くに埋めて保管することにした。保管する核のゴミは、放射レベルが安全基準に下がるだろう1万年~10万年間、地中深くに埋めておき、そして未来の子供たちにその処分を託した。安田屋家具店が立地する岐阜県にも、日本原子力研究開発機構が、高レベル放射性廃棄物の地層処分研究開発の基盤として、地表から地下約1,000m程度までの深地層の科学的研究(地層科学研究)を行う目的で岐阜県瑞浪市に設置した研究施設「瑞浪超深地層研究所」があります。核のゴミを地中深くに埋めるための研究地下施設が身近にあり、他人事ではないと感じています。
この核のゴミをが本当に危険なことだと四代目は思う。
1万年~10万年と簡単に言うけれど、今から1万年前とは、最後の氷期が終わったとされる時代で、人類史上、重大な事件の1つとされる農耕が開始された時で新石器時代とも呼ばれている。日本は縄文時代といわれている。
今から10万年前とは、現代人(ホモ・サピエンス)がアフリカを出て世界各地に拡がった時代である。2012年から10万年後とは、まったく想像ができない。それまで核のゴミは地中深くに保管しておくことができるのだろうか・・・、人類は存続しているのだろうか、疑問である。