ちょうど2年前、四代目に見つかった「聴神経腫瘍」の摘出手術を東京警察病院 河野先生の執刀で行なわれたのでした。時が経つのは本当に早いもので、あれから2年が経過したことに感無量です。いまは手術前となんら替わらない生活に戻り、元気で仕事に取り組んでいます。手術側の右耳が失聴したので、ざわついた場所での会話や、右側から声をかけられたときには聞きずらいか、まったく聞こえない状態ですが、それ以外はふらつきやめまい、顔面麻痺もなく、普通に生活しています。聞きづらいといっても、まったく聞こえないわけでもなく、普通に手術前と同様の会話は成立していますし、人の話も聞こえていますので、なんら不自由は感じません。
ちょうど2年が経過したので、時系列に合わせて手術体験記を再掲載しようと思います。今、聴神経腫瘍で大きな不安を抱えておられる方々の一助となれば幸いです。
3月1日
2010年8月末に発見された四代目の「聴神経腫瘍摘出」手術が、3月3日耳の日で大安の朝8時から行われることが決定しました。そのため今日3月1日、東京は中野にある東京警察病院に来ています。今日から約一ヶ月間の入院生活が始まります。中野での住まいは28年ぶりの里帰りみたいなもので、懐かしい気持ちと不安が入り混じった変な気持ちです。
経過観察、放射線治療(ガンマナイフ・サイバーナイフ)、摘出外科手術の3方法の中から四代目自身が選択した「摘出外科手術」のために3月1日の早朝、自宅を出発した。入院時間は10時30分と言われていたのを1時間遅らしてもらった。初日は何もないようなので早く行っても仕方がないと思ったからである。旅費を少しでもチープにするため「東海JRツアーズ」の【ぷらっとこだま】を利用した。岐阜から中野まで8千円少々である。
自宅を少しはやめの6時30分に出た。名古屋駅7時54分発のこだまに乗車する。同時刻の「のぞみ」に乗車すれば9時40分には東京駅に着き、10時には東京警察病院に着いてしまう。岐阜の自宅からわずか2時間少々で東京中野に着いてしまうわけだ。ちょっと昔で考えればドラえもんの「どこでもドア」のような感じたなと思った。ただこれはもう旅行ではなく、単なる物体移動、さながら人間宅配便のようなもんだとニヤリとした。スピードが速くなり便利になった反面、失うものも大きいように思う。旅、人とのふれあい、流れ行く風景、時間、人情・・・・。昔と今とどちらがよいのかはわからない。もっとも時間をかけて旅行するならば普通列車を選択することもできるわけだ。ただ誰も選択はしないだろう。「時は金なり」そんな文字が頭の中に浮かんだ。
名古屋駅7時54分発のこだまに乗車して約2時間30分で東京駅着。
新幹線の改札を出て、1番ホームの中央線を目指して歩く。1ヵ月分の着替えが入った大きなスポーツバックとノートパソコン類が入ったショルダーバックはとても持ち難く、歩きにくかった。なんとか中央線ホームにたどり着き止っていた電車に飛び乗った。幸運にも待つこともなく直ぐに発車。約20分前後で中野に到着。28年ぶりに第二の故郷に戻ってきたのだ。
中野ブロードウェイを途中で出て、中野サンプラザ前を過ぎる。早稲田通りに出たところを左折。丸井の本社ビルを過ぎしばらく歩くと東京警察病院に到着した。32年前は警察大学校であった場所らしい。記憶の中にはなかった。
入院窓口で受付を済まし、病室である5階に向かう。若々しい看護婦さんに案内されて4人部屋に向かった。今日は午後から麻酔科で全身麻酔の説明を受けるだけであった。レンタルで頼んでいたイーモバイルの接続機器は明日しか届かないので、今日一日は買い込んだ小説を読むこととした。
昼食後、まったりと小説を読んでいると麻酔科に行くよう案内があった。1階の麻酔科に向かう。医師と看護師の二人が待っていてくれた。全身麻酔の仕方、全身麻酔の危険性などについての説明が行われた。説明を聞いている中で「聴神経腫瘍」が発見される前までには普通のことだと思っていたことに微妙にニュアンスが変わったことに気がついた。特に危険性の説明の中で、
「全身麻酔にはさまざまな危険性があります。中には脳腫瘍になったりして生命に危険な場合もあります。ただ症例としては10万人に1人という極めて低い確率なので起こりにくいことなのでご安心ください。ただそのような危険な場合もあることを理解下さい」
今までなら10万人に1人の確立であれば気にしなかったのであるが、発見された「聴神経腫瘍」は年間約10万人に1人で発症する難病である。つまり四代目はすでに10万人に1人に当たったのである。確率はさらに低くなるもののまたも大当たりしてしまったらと考えるとゾクゾクっと背筋が冷たくなった。しかしそれよりも全身麻酔の説明で意外な事実に驚愕した。
「手術が終わって全身麻酔をやめると約15分~20分程度で麻酔が覚めます」
「えっ、麻酔から覚めるんですか」
「はい」
それまでテレビなどで見た光景として手術後は半日以上麻酔から覚めずに眠り続けているものだとばかり思っていた。それが術後直ぐに目が覚めるとは想像にしていなかったことである。不安が脳裏を横切った。思わず小声で「いやだぁ」と呟いてしまった。術後の状態がまったく想像できない今は不安と恐怖が入り混じって襲ってくる。打ち勝てるだろうか。拳を握り締めたまま麻酔科室を出て病室に戻った。悟られぬように平静を保ってはいたが、おそらく顔は半分引き攣っていたのではないかと思う。その後は何事もなく一日が暗闇につつまれていった。早朝からの行動で疲れたのか、消灯時間の9時にはウトウトと眠りについていた。
5階病棟には四代目と同じ「聴神経腫瘍摘出」手術を終えたと思われる頭に包帯巻いて普通に歩いている患者さんを4名ほど見かけました。痛みやめまい、顔面麻痺なども見受けられず、いたって普通でした。頭に包帯巻いている以外は。四代目もこのようであって欲しいと祈るばかりです。同室の隣の方も頭に包帯巻いていて手術後の方です。いたって普通にされているので、昨日まで調べまくった体験者ブログの内容と少し違っていて、ちょっと安堵しています。
河野道宏先生の腕を信じるしかありません。信じていますよ〓!
今日は心電図検査と胸部レントゲン撮影、麻酔科の女医より全身麻酔の説明を受けて終わりました。明日は午後3時から河野先生から手術についての最終説明があります。上京してくれる四代目の奥様と一緒に聞きます。明後日の手術が、やはり今でも不安でいっぱいの眠れぬ夜を迎える四代目が東京警察病院五階病室ラウンジからお送りしました。
ちょうど2年前、四代目に見つかった「聴神経腫瘍」の摘出手術を東京警察病院 河野先生の執刀で行なわれたのでした。時が経つのは本当に早いもの で、あれから2年が経過し、いまは手術前となんら替わらない生活に戻り、元気で仕事に取り組んでいます。手術側の右耳が失聴したので、 ざわついた場所での会話や、右側から声をかけられたときには聞きずらいか、まったく聞こえない状態ですが、それ以外はふらつきやめまい、顔面麻痺もなく、 普通に生活しています。聞きづらいといっても、まったく聞こえないわけでもなく、普通に手術前と同様の会話は成立していますし、人の話も聞こえていますの で、なんら不自由は感じません。
ちょうど2年が経過したので、時系列に合わせて東京警察病院にて2011年に行なわれた四代目自身の手術体験記を再掲載しようと思います。今、聴神経腫瘍で大きな不安を抱えておられる方々の一助となれば幸いです。
河野道宏先生は、2013年4月から東京医科大学に主任教授として異動されます。そのため4月以降の手術などの詳しい情報は河野先生のホームページでご確認ください。【脳神経外科医 河野道宏先生のホームページ】
3月2日 手術前日
今日は午後3時から「聴神経腫瘍」のスペシャリストであり、今回の主治医である河野道宏医師から手術に関する説明が行われる。そのために岐阜から家族が来ることになっていた。どうして河野道宏医師に決めたかについては後ほど落ち着いたころに話そうと思った。午後2時ごろ家族がやってきた。ふと携帯電話に目をやると着信の光があわただしく点滅していた。チェックしてみると家族からのメールが何通か届いていた。1階のコンビニで昼食を食べているらしい。急いで上着を引っ掛けてエレベーターで1階に向かった。すぐに見つけることができた。昼食を食べ終えた家族と一緒に病室に戻っていった。
病室に戻るとほどなくして担当医がやってきた。
「少し時間が早いのですが、主治医の河野先生に時間ができたので手術前説明を行いますが・・」
「わかりました」
家族とともにブリーフィングルームに入室した。
室内には主治医の河野道宏医師、そして河野医師率いる脳神経外科河野チーム3名の医師、病室担当看護婦リーダーの4名が待機していた。そこれにたった今案内してくれた直接の担当医と家族が加わりちょっと狭い室内は7名で満員となった。着席すると直ぐに説明が始まった。前面の大きなモニターに移った聴神経腫瘍部分が白っぽく写っているMRI画像を見ながら河野先生から詳しく説明していただいた。腕を組みながらじっと聞き入っていた。この態度が後から家族に注意されるとは思わなかった。
「腕組しながら河野先生のお話を聞くのは失礼だよ」
「そうだね、気をつける」
河野先生の説明は素人でもわかりやすく、詳しく、かつ丁寧に説明していただいた。
「四代目の場合、ここのルートで腫瘍にアタックします。ただそのルート上に静脈があるのが普通と違うところで難しい手術です。技術の差が確実に現れます」
「静脈ですか・・・」
「また腫瘍に行き着くためには小脳をヘラで持ち上げるのですが、小脳にストレスを与えないようストップウオッチ2個持ったスタッフが、7分経過したら1分ヘラを戻すようにします。とても面倒くさい事なんですが、この面倒くさい時間をかけることが大切なんです。面倒くさいことに時間をかけけることこそが技術の差にもつながるんです」
はっと思った。
今説明されたことは、家具作りにも通じることだ。いや、家具作りだけでなくあらゆる業種の名人といわれる熟練した職人に通じるものだと思った。自分も家具修理に関して、面倒くさいことを行うことの重要性は理解している。簡単に済まそうとすると往々にして失敗するものであり、時には取り返しのつかない失敗を何回もしたものだ。家具ならば代替できるが、人命となるとそういうわけには行かない。河野先生の説明を聞きながらそんなことも考えていた。その時ふと見たものにある確信を得た。それは顔が写るほどピカピカに磨きこまれた傷ひとつない黒のコインロファーであった。そう、河野先生の靴である。一寸の隙もなく磨きこまれたコインローファー、それを見た途端、「河野先生に決めてよかった。間違いはなかった」と確信した。今まで勤務時間中にこれほどきれいな靴を履いた医師を見たことがなかった。もっと聴神経腫瘍が発見されるまで病院には行ったことがないことを考えれば事実かどうかは少々怪しくなる事柄である。
しかし人生50年の経験の中で出会った人々で、お洒落の基本である足先まで気を使っている人は皆良い人ばかりであった。繊細で、好奇心旺盛、探究心に厚く、とことん突き詰めていく、そしてフレンドリーな人達ばかりであったように思う。きっと河野先生もそうではないかと勝手に想像していた。家族には落ち着いてから話そうと思った。
詳しい手術説明が行われ、何となく静まり返った室内であったが、些細な話題が一瞬その場にいた人達の笑いを誘い、ほんの少し重苦しい空気が流れていくのを感じた。最後に
「難しい手術ですが、明日はがんばりましょう。腫瘍と闘いましょう」
「皆さん明日はよろしくお願いします」
河野先生をはじめスタッフ一人ひとりと硬く握手をしようと考えていたが、いろんなことが渦巻いて言葉を述べるのがやっとであった。
「四代目ですね。ブログ見ました。時々自分の名前で検索しているんです。先日、安田屋家具店というのが検索に引っかかってね、何で家具屋さんという訳で読んだんです」思ってもいなかった言葉を聞き驚いた。河野先生がブログを見つけていたらしい。四代目と同じようにパソコン好きかも知れないと思った。年齢もほぼ同じであり、同じようなパソコン環境を生きてきたわけで、河野先生のブログでの返信作業を見ていて何となく四代目と相通じるものがあるかもしれないと思っていた。やはり細めな返信作業は、好きでないとできない。好きだけでもできない。好きであり、相手の役に立とう、世の中の役に立とうとする強い意思が無ければできないことだと思っている。きっと河野先生も同じなんだろうと思っていると、家族は隣で「ほらっ」というような引き攣った笑顔で私の腕を小突いた。思わず「ありがとうございます。ご指摘部分は直します」というのがやっとの返答であった。
退出する際に再度「よろしく頼みます」と強く言って病室に向かった。
病室までの短い時間、沈黙のまま歩いた。
とても長く感じたが、二十歩ほどの長さであった。
病室に戻っても沈黙が長く続いた。
そして家族が買い物に出かけていった。
担当ナースがやってきた。
「睡眠薬ご用意しますか」
「いや、必要ないです」
「そうですか。手術前で眠れない方用にご用意してありますので必要なときは言ってくださいね」と天使がささやくような心に優しく響く言葉で言ってくれた。心がほんの少し安らぐのを感じた。その後は何事も無く時間だけが刻々と過ぎていった。夕食後に家族は宿泊先の中野サンプラザホテルに帰っていった。一人病室に残り、後数時間で始まる手術への不安と恐怖とひたすら闘っていた。といっても手術そのものは全身麻酔であり、長時間の手術であっても本人はまったく意識が無い時間なので恐怖や不安はまったく無かった。当然生還することを前提にしている。恐怖や不安よりも、少しわくわくした遠足前日のような気分でもあった。初めての手術に対する好奇心のほうが強かった。
ちょうど2年前、四代目に見つかった「聴神経腫瘍」の摘出手術を東京警察病院 河野先生の執刀で行なわれたのでした。時が経つのは本当に早いもので、あれから2年が経過し、いまは手術前となんら替わらない生活に戻り、元気で仕事に取り組んでいます。手術側の右耳が失聴したので、ざわついた場所での会話や、右側から声をかけられたときには聞きずらいか、まったく聞こえない状態ですが、それ以外はふらつきやめまい、顔面麻痺もなく、普通に生活しています。聞きづらいといっても、まったく聞こえないわけでもなく、普通に手術前と同様の会話は成立していますし、人の話も聞こえていますので、なんら不自由は感じません。
手術後2年が経過したので、時系列に合わせて東京警察病院にて2011年に行なわれた四代目自身の手術体験記を再掲載しようと思います。今、聴神経腫瘍で大きな不安を抱えておられる方々の一助となれば幸いです。
河野道宏先生は、2013年4月から東京医科大学に主任教授として異動されます。そのため4月以降の手術などの詳しい情報は河野先生のホームページでご確認ください。【脳神経外科医 河野道宏先生のホームページ】
3月3日 手術当日
手術当日の朝が明けた。
朝6時には目が覚めていた。
とうとう、ついに聴神経腫瘍の摘出手術当日の朝を迎えました。
あと1時間30分後に手術が始まります。手術は全身麻酔なので不安よりも興味と好奇心の方が強いのですが、麻酔から目覚めた時の不安が大きいです。顔面麻痺も無く、痛みや吐き気もなく目覚めていればよいのですが。さらには河野先生の技術と全スタッフの技術のすばらしい連係によって、無事に手術が成功することを祈るばかりです。
ちなみに昨晩は、手術前日にも関わらず、河野先生に全幅の信頼をしているので、なんの不安も無く、睡眠薬も必要とせず普通にぐっすりと眠ったのでした。
病室を出るのは午前8時35分。まだ時間はある。家族がやってきた。こわばった笑顔が印象的だった。時間まで「I podシャッフル」のイヤホンを両耳に押し込み入院前に入れた音楽を聴いた。自分を勇気付けるために選曲したのが「サザンオールスターズ」「吉田拓郎」「ウルフルズ」。サザンの「栞のテーマ」「夏をあきらめて」、吉田拓郎の「人生をまだ語らず」、ウルフルズの「それが答えだ」「笑えれば」「バンザイ~好きでよかった~」「ええねん」を何回も繰り返し聞いた。自分を鼓舞するため、つらい時に鼻歌が歌えるようにとメロディーを再確認するためであった。今から思えば「アリス」の曲も聞けばよかったと思う。病室で家族と案内を待つ間の光景は、映画ロッキーで主人公ロッキーと妻エイドリアン二人がリングに向かう前の控え室にたたずんでいるかのように思えた。情景から色が消え、モノクロ画面であった。
昨日の説明で、テレビで見た手術室に向かう道程が少し違うのに戸惑っていた。イメージではストレッチ寝台に横たわり、看護婦に押され手術室に向かう。その傍らに心配顔の家族が付き添っている。手術室前に到着。家族に気丈にも作り笑顔を見せる。
「ご家族の方はここまでです」
「じゃぁ、行って来るね」
「がんばってね」
「それでは」
感動的なこんなイメージを勝手に作り上げていた。ところが実際は歩いて手術室に行くのであった。待機している病室で薬を飲むことも無く、点滴もしない。これから行う聴神経腫瘍を除けば、身体はいたって元気そのもの。歩いて十分行けるわけだ。
午前8時40分。
担当の若いナースが時を告げにやってきた。
とうとうその時刻になってしまった。ほんの一瞬家族と目が合った。スローモーションのようにゆっくりと耳にはめたイヤホンを抜き捨て立ち上がった。手術室直通の専用エレベーター前まで家族と一緒に歩いて行った。緊張感はまったく無かった。昨日までの不安や恐怖感も微塵に感じられなかった。エレベーターがなかなか来ない。時間が長く感じた。エレベータの扉が開いた。そして家族と普通に別れた。まるで日常生活のように、ごく普通であった。それが妙に面白く下を向いてニヤリと口元が笑うのを感じた。
3分後、手術室到着。
すでに多くの手術スタッフが完璧な準備を済ませ待ち構えていた。手術室を初めて見てほんの一瞬ためらいを感じた。しかしすぐ手術室への好奇心が持ち上がり、興味本位で眺めていた。数室ある手術室の一室に案内された。部屋の大きさは卓球コート程度に広く、天井が異常に高く感じた。清潔感と無機質な印象を受け、SF映画に映し出される光景にも思えた。CT撮影機などの医療機器をあちこちに置いてあるのが見えた。定かではないが、記憶では6人前後の河野チームスタッフを見た。眺め回す時間も無く直ぐに手術台に促された。1段ステップを登り手術台に乗った。肩幅程度の狭いベットだった。ベットに横たわると待ち構えていた手術スタッフが急にせわしなく動き回るのが見えた。左手甲の静脈に点滴用の針を刺されるのをじっと眺めていた。針の先には点滴液が見えた。額には四角い小さな剣山のようなものを貼り付けた。チクリと痛い。
「足に血栓を防止するためにエアーマッサージ器を付けますね」
「腕に自動的に血圧を測る血圧計付けますね」
「眠くなる薬が入ります」
「大丈夫ですか」
「手はしびれてませんか」
とても丁寧に、そして親切に気遣ってくれていた。左手甲の静脈に薬が入りはじめしばらくすると液が注入されていき左腕がジワジワッとしびれ始め痛みを感じた。足先から膝まで包まれたエアーマッサージ器が心地よく伸縮を始めた。
「少ししびれが大きくなってますね。大丈夫ですよ」
「うーー・・・・」、しびれの痛みが強くなるのを感じつつ、ナースの言葉を最後に記憶が無くなった。手術室では、おそらく手術本番がスタートしたのであろう。担当医師が現れ、全身麻酔作業を開始し、手順よく手術が始まったのだ。記憶が無いのであくまでも想像である。
朝8時45分~夕方6時ごろまで続いた手術中、四代目自身の記憶が無いため、術後に思ったことです。
これ以降の体験内容はすべて四代目個人が自分自身の記憶として作成したものです。発症理由が不明な難病であり、年間10万人に1人という極めて低い確率で発症する「聴神経腫瘍」の手術体験は、腫瘍発症年数、大きさ、場所、状態、放射線治療の有無、年齢、生活環境などによって人それぞれに違うようです。100人いれば100通りの手術体験があるようです。術後状態は重度な人から軽度の人まで様々です。今回四代目が体験した術後は、とても難しい手術にもかかわらず、比較的軽度の症例ではないかと思っています。これもひとえに河野道宏先生のおかげと感謝しております。ちなみに入院中に東京警察病院で見かけた聴神経腫瘍摘出手術を終えた人々は、おおむね手術後1週間経過すれば、頭に圧迫包帯を巻いている以外は、ごく普通に生活・行動されていました。
手術前、インターネットによってできるだけ多くの「聴神経腫瘍手術」に関する情報を集めました。さらに手術を決めた後は、不安と恐怖が入り混じり想像もできない未知なる体験である手術後の状態、いわば手術体験談、体験記をただひたすら集めまくり、むさぼるように読み漁りました。読む情報が多くなるにつれて、不安と恐怖が忍び寄ってきました。ついには「今の状態でいいのではないか。このままでいいじゃないか。何で手術しないといけないのか。手術やめるか」という思いが出てきたのです。
手術体験記を読み込むでいくと気になる症例を目にします。顔面麻痺が残り目が閉じない。鼻から髄液がたれてきた。口に水を含むと術側の口から漏れる。うまくしゃべれない。味覚が変わった。術後4日経過して気がついた。どれもとても有意義で貴重な経験談であり、役に立ったことは言うまでもない。情報を発信された方には、自らの体験を発信したことに敬意の念と深い感謝を申し上げます。実際これらの情報がどれだけ心強かったことか。
ネット社会によってもたらされた手軽で便利な情報収集。しかし集めた膨大な情報の中から、どの情報を信じ、選択するのかは自分自身に委ねられている。重度な症例から軽度の症例。様々な情報であるが、それらを知ることはとても心強い。まったく想像できない未知なる体験に挑む者にとってはとても心強いものである。情報を持っていることがこんなに心強いことなのかを強く感じた。
振り返り四代目にとって心強かったのは「家族」であった。頼れるものは「家族」。手術に揺れ動く心境を見て後押しをしてくれたのは紛れも無い家族であった。
「大丈夫だって。痛くないって」
「手術するんでしょう}
「決めたでしょ」
「決めたのはあなた自身でしょ」
これらの言葉を受けて、沸々と勇気と力が湧き上がったのです。家族にはこの場を借りて感謝!! 感謝!!
未知なる経験、「聴神経腫瘍摘出手術」に闘いを挑むならば、情報を持っていることが重要。何も知らなければ漆黒の暗闇の中、言い知れぬ恐怖と闘わなければなりません。何が起こるかわからないことほど怖いものは無い。反面、どんな情報でも知っていれば、漆黒の暗闇の中でも手探りで何かをつかむ事ができます。知ることは想像することができることにつながります。どんな状態でも、それに近い体験談を知っていれば、その後の成り行きを何となく理解でき、想像し、耐えられる。術後の症状が軽ければそれで良し。たとえ重くても、どんな状況になるか知っていれば対処できる。知らないことが一番怖いことを今回知った。たとえどんな情報であっても。インターネットは情報を流すだけであり、洪水のように押し寄せる情報の中から何を選ぶかは・・・・、自分自身に委ねられている。そう、決めるのは「あなた」である。
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不安と恐怖の【聴神経腫瘍摘出手術】に闘いを挑むなら、それを楽しもう。とてもそんな状態でないことは経験済み。ならば「手術止める ???」手術を取りやめて、不安な毎日を過ごしますか。手術を行うと決心したならば、不安と恐怖に打ち勝つために楽しもう。無理して楽しもう。そして最後は笑おう。アハハと笑おう。笑い飛ばしてしまおう。他の体験者から声かけていただいたアドバイス。【時間がクスリ、時間がクスリ】このアドバイスがどれだけ心強かったか。この言葉を信じ苦しい時間を耐えられた。私は手術前に読んだ本の中の【何ていう日だ。寝ちまえ! 寝ちまえ! 目が覚めれば別の日じゃねぇーか】が心に思い浮かびました。
ちょうど2年前、四代目に見つかった「聴神経腫瘍」の摘出手術を東京警察病院 河野先生の執刀で行なわれたのでした。時が経つのは本当に早いもので、あれから2年が経過し、いまは手術前となんら替わらない生活に戻り、元気で仕事に取り組んでいます。手術側の右耳が失聴したので、ざわついた場所での会話や、右側から声をかけられたときには聞きずらいか、まったく聞こえない状態ですが、それ以外はふらつきやめまい、顔面麻痺もなく、普通に生活しています。聞きづらいといっても、まったく聞こえないわけでもなく、普通に手術前と同様の会話は成立していますし、人の話も聞こえていますので、なんら不自由は感じません。
手術後2年が経過したので、時系列に合わせて東京警察病院にて2011年に行なわれた四代目自身の手術体験記を再掲載しようと思います。今、聴神経腫瘍で大きな不安を抱えておられる方々の一助となれば幸いです。
河野道宏先生は、2013年4月から東京医科大学に主任教授として異動されます。そのため4月以降の手術などの詳しい情報は河野先生のホームページでご確認ください。【脳神経外科医 河野道宏先生のホームページ】
3月3日 夕刻未明~3月4日
パソコン画面に映った見積書を見ながら「早く見積書を書かないと、金額は、ええっと・・・」と思っていたら遠くから「すみさん、すみさん」と呼びかける声に気がついた。ふと目を向けると(実際には目を開けると)、誰かの顔が見えた。
「えっ、ここは??、ここはどこ??」
しばらくして
「あっそうか、手術終わったんだ」ということに気がついた。
「お名前は」
「生年月日はいつですか」
「今日は何日ですか」という問いかけがあり、いずれもかすかな声で答えた。
「手術終わりましたよ。これからICUに行きますからね」という声とともにベットが移動するのを感じた。着いた部屋は少し薄暗く狭い部屋であった。「手術終わったんだ」と実感していると直ぐに河野道宏先生が手術着のまま駆け寄ってきてくれた。
「大丈夫ですか。手術無事終わりました」
「あなたの腫瘍は一般的なものと少し違っていました。通常は聴神経腫瘍の後ろ側に【顔面神経】があるのですが、あなたの場合は前面側にありました。こんなケースは非常にまれで、今まで500前後行った手術の中で20数名、約5%しかない大変難しい手術でした。でも大丈夫ですよ。腫瘍は全て摘出しましたからね。さらに聴神経か前庭神経か、どちらかよくわからないのですが、1本神経残ってますからね」
「はい、ありがとうございます」と小声でつぶやいた。声がかすれていた。
「助かったぁー」
「神経1本残ったんだ。あぁーすごい、河野先生の技術。信頼してよかった」
「バンザァーイ」と思っていると
「目をつぶってみて」
「口をうーんとすぼめて」
「唇をいーんと横に広げて」
「口の中で舌を動かして」と河野先生の声。
指示に従ってやってみる。全部できた。
「全部できるね。よーし大丈夫」という心強い声が狭いICU室内に響き渡った。
全部できた。心配していた顔面麻痺はないようである。心配していた目もしっかりと閉じることができた。唇も自由に動く。口の中で舌も自由に動く。おやっ? 頭の痛みが無い。切開しているのにまったく感じない。麻酔のせいか。そうだよな。痛みのことよりも顔面の動きが気になってしょうがなかった。自分自身で何回も試してみた。
「家族の方、大丈夫ですよ」ふたたび河野先生の心強い声。足元に立っている家族をチラリと見た。少し涙ぐんでいるように見えた。今の状態をデジカメに何回も撮影していた。回復したら当事の様子をゆっくりと見ようと思った。今すぐはイヤだ。
そしてここから術後最大の試練が待ち受けていることなど露知らず、ボーとしていた。
頭の左側にはテレビドラマでよく見る「ピッ、ピッ、ピッ・・」というモニター画面がチラッと見えた。心電・血圧などを測っているのだと思う。足元ではエアーマッサージ器が足首→ふくらはぎ→膝下脚全体の小気味良い正確なリズムで伸縮を繰り返しマッサージをしていた。ICU試練の中でこれが一番心地よく、試練に耐えるための唯一の心のよりどころであった。
切開された頭部の痛みは無い。頭部よりも身体の左下側が痛い。耐え切れない痛みを感じる。長時間の手術中、左側をずっと下にしていたことが原因である。うっ血して床ずれのようになっていることが容易に想像できた。しかし耐えられない。身体をひねる、うまく動かすことができない。悪戦苦闘しているとICU担当ナースがやってきた。「お名前は」「生年月日は」と質問をされた。質問に答えた後、「どこか痛いところありませんか」「左側が痛い」と伝えると状況を見てくれた。「赤くなってますね。氷で冷やしましょうね」と言い、即座に氷で身体左側を冷やしてくれた。さらに少し左側を持ち起こすために何個か枕を左側に差し込んだ。この処置で少し痛みが和らぎ楽になった。
しばらくすると河野道宏先生の技術を継承していく担当医2名が来てくれた。
「どうですか」
「大丈夫ですか」
「目を瞑ってみてください」
「唇をいーんと横に広げてみて」
顔面麻痺が出ていないかの確認である。問題ないことを確認して安堵の笑みを浮かべた。「大丈夫ですよ。がんばってください」と言ってくれた。心から「ありがとうございます」と最敬礼をした。
少し落ち着いてくると息がしにくいことに気がつく。
嘔吐を防ぐために鼻から胃まで差し込んだチューブが右鼻穴に入っているからだ。口呼吸をしていると息苦しくなってくる。鼻呼吸を行うとチューブがじゃましてうまくできない。眠くて眠りたいのに眠れない。息苦しい。一瞬、呼吸ってどうやるのかとわからなくなってしまう。息苦しくて仕方なく口呼吸をしていると喉の粘膜がくっつく。のどが痛くなる。鼻の違和感、のどの痛み、呼吸のしにくさ、身体左側の痛みとの闘いがしばらく続いた。
2~3時間ごとにICU担当ナースが見回ってくれていた。その都度、氏名や生年月日、担当医の名前、主治医の名前、今日の日付などいろいろな質問をして意識確認をしてくれた。時には計算もさせられた。「100から7を引く計算してください」「そこからまた7引いていくつ」「さらに7引いて」「はいOKです」そして「少しうがいしましょうか」といって口に水を含ませてくれた。飲むのではなく口の中でグチュグチュしてから吐き出すのだ。このうがいはありがたかった。砂漠の中で水を得た心境だった。
3時間ごとにベットの頭部をすこしづづ起こしていった。最初は5度くらいの傾斜に感じた。最終的には20度くらいの角度に起き上がったと記憶している。頭部が持ち上がると体がずり落ちていくので、時々2名のスタッフで対応して引き上げてくれた。感謝!!
夜中、手術着のままの河野先生がふたたびやって来てくれた。心強かった。
「大丈夫ですか」
「目を瞑ってみて」
「口をすぼめてみて」
「よーし、大丈夫」
「がんばってください」
河野先生の優しい声掛けが勇気百倍となった。
手術着のままということは、まだ手術行われていたんだと思った。
すごい精神力、集中力だと思った。タフだ。
喉の粘膜がくっつく違和感が続き痛い。つばを飲み込もうとしてもつばが溜まらない。鼻水を少しすすってみるがチューブがくっつき痛い。我慢してほんの少しすすって口の中に水分を溜める。口の中にほんのわずか溜まった水分をのどに流す。くっついていた喉の粘膜が流れてきた水分で離れる感じがした。そして痛みも和らいだ。少し呼吸が楽になった。何回も繰り返していくうちに鼻チューブに慣れたのか、知らないうちに鼻呼吸をしていた。そしてウトウトと浅い眠りをむさぼっていた。
しかし直ぐに意識チェックで起こされる。「今何時がわかりますか。今9時ですよ」の声が時間を聞いた唯一の時であった。ベット右側に大きな時計が置いてあったが近眼なので見えなかった。もうこの時にはすでに時間の観念が無い。どうでもよいことである。
頭の中で「時間がクスリ、時間がクスリ、あと数時間我慢するだけ」「時間がクスリ、時間がクスリ」と何回も繰り返し念じた。時には数時間前に聞いた曲を口ずさみ耐えた。ぼんやりと天井を眺めると、天井灯が二重に見える。右目、左目が見た画像がそれぞれ独立して見える。片目を閉じれば解決するが、両目で見ると左右それぞれの画像が見えるので物が二重に見える。脳で画像処理がうまくできてないのだろうか。二重に見えることは目を閉じればとりあえず解決できるし、時間の経過とともに治っていくだろうと思った。それよりもめまいや吐き気はまったく感じられないことが助かった。
しばらくしてふくよかな体型を手術着で身を包んだ布袋様のような見覚えのある顔が見えた。手術説明時に同席されていた医師だ。秋元 康氏に似ていた。マスクをした顔から見える目に笑みを浮かべておられるのが見えた。その笑顔を見て心が和らいだ。癒されるやさしい目であった。辛さも一瞬吹き飛んだ。あの笑顔は今でも脳裏に焼きついて忘れられない。うれしかった。
「大丈夫ですか」
「目を瞑ってみて」
「口をすぼめてみて」
「よーし、大丈夫」顔面麻痺が出ていないか確認して、出ていないことがわかると安心してICUを退出された。時間の観念が無くわからないが深夜であることは間違いない。こんな時間まで手術してたんだと思った。その後、徐々にICUでの辛さもほんの少しづつ和らぎ、ウトウトと浅い眠りを貪っていた。
どの位の時間がたったのだろう。もう夜は明けたのだろうか。あと何時間経過すればICUから出られるのだろうか。目が覚める度にそんなことを思った。ベット右においてある時計をチラリと見て、もう直ぐ夜が明ける時間であることがわかった。するとパタパタパタと足音。足元に目を向けると河野先生が近づいてくるのが見えた。この時間に来るのは病院に泊まったんだ。何回も気にかけていただいていることに薄っすらと涙がこぼれた。
「どうですか」
「目を瞑ってみて」
「口をすぼめてみて」
「ここの感触は左右で違いますか」
「大丈夫ですね」
「もう少しですよ。がんばってください」と河野先生。素直にがんばろうと思った。わずか2分程度の短い時間であったが心強かった。河野先生の言葉に安心したのか、眠ってしまった。
3月4日の朝を迎えたようだ。
朝10時、ICU担当ナースが来た。
「これから一般病棟に行きますからね」
「その前に鼻のチューブをまず抜きますからね」と言って鼻のチューブが抜かれた。ICUから一般病棟にベットごと戻された。ICUにいた時痛かった身体左側の床ずれ部分の痛みはなくなっていた。うっ血した部分がきれいになくなったらしい。安心。
一般病棟に着くとすぐに朝食が運ばれてきた。
「全粥」だけだったがとてもおいしかった。
完食。
ベットの背もたれは約20度の角度で持ち上がっている。座椅子に寝そべっている体勢に似ている。ゆっくりと周りを見回してみる。左手に点滴がつながっていることだけが見えた。頭がふらつく。頭が重い。
この感覚は知っている。「もう二度と酒は飲まない」と思うほど泥酔した二日酔いのような感じだった。身体を動かすことも、頭の向きを変えることも怖くて、ずっと上を向いた仰向けの状態で寝ていた。かたわらに家族がいるのが見えた。ホッとした安心感か、意識がスゥーとして深い眠りについた。尿管が入ったままなのでトイレに行くこともなくそのまま眠り続けた。
しばらくして担当医とナースが来た。手術後に縫合した皮膚の下に溜まる血液を体外に流し出すための管の状態を見た。流れ出た血液の量が少ないらしい。縫合箇所から出ている管の入りが悪く、血液が出にくい状態になっているらしいことを話していた。これを改善するために管を皮膚の中に押し入れる作業をすることとなった。その話を聞いていて心底「ゾッ」とした。家族がカーテンの外に出された。
「少しチクッとしますね」の言葉に身構える。縫合部分を触っているらしいがまったく感覚が無い。管を押し込んでいるらしい。「縫い付けますね。少しチクリとするかもしれません」の言葉に再度身構える。だがやはり痛く無かった。感覚が麻痺している。その後、皮膚を手で押した。プニュ、プニュという気味悪い音がした。皮膚の下に溜まった血液を押し流し出したらしい。何の感覚も無かったが音はとても気味悪かった。この改善によって皮膚の下に溜まった血液のほとんどが流れ出て、その後あまりたまらなくなったようだ。出血が止まったらしい。
この日も河野道宏先生が病室に状態を確認しに来た。やさしく声を掛けていただいた。いったい何回見に来てくれたんだろう。素直にうれしい。
昼・夕食に「全粥」と煮魚などを食べた。身体の動きが鈍く、仰向けのまま食べた。骨のついた煮魚は食べにくく、家族に細かく切り分けてもらった。オレンジの果汁は美味だった。
この日は一日ベットの上で仰向けに寝たまま過ごした。身体も頭も動かすことを嫌い、寝返りも打たず同じ姿勢でずっと寝ていた。寝返りを打っていないようだとナースが心配していたらしい。動くと痛いかと思い固まっていただけである。
ちょうど2年前、四代目に見つかった「聴神経腫瘍」の摘出手術を東京警察病院 河野先生の執刀で行なわれたのでした。時が経つのは本当に早いもので、あれから2年が経過し、いまは手術前となんら替わらない生活に戻り、元気で仕事に取り組んでいます。手術側の右耳が失聴したので、ざわついた場所での会話や、右側から声をかけられたときには聞きずらいか、まったく聞こえない状態ですが、それ以外はふらつきやめまい、顔面麻痺もなく、普通に生活しています。聞きづらいといっても、まったく聞こえないわけでもなく、普通に手術前と同様の会話は成立していますし、人の話も聞こえていますので、なんら不自由は感じません。
手術後2年が経過したので、時系列に合わせて東京警察病院にて2011年に行なわれた四代目自身の手術体験記を再掲載しようと思います。今、聴神経腫瘍で大きな不安を抱えておられる方々の一助となれば幸いです。
河野道宏先生は、2013年4月から東京医科大学に主任教授として異動されます。そのため4月以降の手術などの詳しい情報は河野先生のホームページでご確認ください。【脳神経外科医 河野道宏先生のホームページ】
3月5日 手術後2日目
朝食です。
(この時はまだ記録として食事の写真を撮ることを考えていなかった)
この日は朝食後、尿道に入ったままの管を抜いた。
ナースが「息を吐いてぇー」「いち、に~の、さん」と言う合図とともにスッと抜かれた。緊張したが痛みはなかった。「排尿するときに少し痛かったり、血が出る場合があります。まだ完全に歩けないのでトイレに行くときはナースコールしてください」と言われた。しばらくしてナースコールをして一緒にトイレに行く。手術後はじめての排尿。少し緊張する。痛みは無い。血も出なかった。ただ排尿の最後にプニョプニョと空気が出た。初めての体験に驚きあわてた。だが何も問題なかった。再度ナースコールしてベットに連れて行ってもらう。ここは病室にトイレがあるので歩く距離が少なくよかった。
昼食です。
午後、熱い蒸しタオルで身体を拭いてもらった。起き上がった時ふらつく。この感触は乗り物酔いに似ていた。手術後、初めて着替。心身ともにリフレッシュした気分であった。その後、MRI撮影のため、車椅子に乗って連れて行かれた。ふらつく。MRI室では6人掛かりで撮影台に乗せられた。
縫合した部分に入れてある管を抜くため処置室に歩いていった。途中、歩いている姿を見た家族が驚いていた。点滴が下がっている支柱につかまり歩いた。ふらつくが一人で歩けた。処置室で担当医が待っていて縫合部分を触られたが感覚は麻痺したままで、ギブスの上から触られている感覚であった。自分の頭と言う感覚が無い。おもむろに管を抜く処置をはじめた。「縫合しますからチクリとしますね」の声に身構えた。しかし何の感覚も伝わってこなかった。担当医が「写真とらなくていいですか」と声を掛けてくれた。デジカメを持っていなかったことと、生々しい傷を見る気なれず「次回で」と言うのがやっとだった。
夕方には一人でトイレにふらつかずに行けるようになった。順調に回復している。ものはまだ二重に見えているがさほど問題は無い。
夕食です。
夜、病室内にイビキの大轟音が鳴り響いた。クスリの影響らしい。「グゥオゥーー」「ガガガガァーー」「ガオァー、ゴーーーー」眠れない。闇夜の中、耳栓を探したが見つからず、今夜は睡眠モニタリングかとあきらめてイビキを聴いていた。大音響に耐えられず再度耳栓を探す。見つけ出して耳に押し込む。このとき気がついた。手術側の右耳が聞こえない。正常な左耳だけに耳栓を入れた。これはかなり便利だ。耳栓1個だけで事足りると思いニヤリと笑った。そして深い眠りについた。
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