ちょうど2年前、四代目に見つかった「聴神経腫瘍」の摘出手術を東京警察病院 河野先生の執刀で行なわれたのでした。時が経つのは本当に早いもの で、あれから2年が経過し、いまは手術前となんら替わらない生活に戻り、元気で仕事に取り組んでいます。手術側の右耳が失聴したので、 ざわついた場所での会話や、右側から声をかけられたときには聞きずらいか、まったく聞こえない状態ですが、それ以外はふらつきやめまい、顔面麻痺もなく、 普通に生活しています。聞きづらいといっても、まったく聞こえないわけでもなく、普通に手術前と同様の会話は成立していますし、人の話も聞こえていますの で、なんら不自由は感じません。
ちょうど2年が経過したので、時系列に合わせて東京警察病院にて2011年に行なわれた四代目自身の手術体験記を再掲載しようと思います。今、聴神経腫瘍で大きな不安を抱えておられる方々の一助となれば幸いです。
河野道宏先生は、2013年4月から東京医科大学に主任教授として異動されます。そのため4月以降の手術などの詳しい情報は河野先生のホームページでご確認ください。【脳神経外科医 河野道宏先生のホームページ】
3月2日 手術前日
今日は午後3時から「聴神経腫瘍」のスペシャリストであり、今回の主治医である河野道宏医師から手術に関する説明が行われる。そのために岐阜から家族が来ることになっていた。どうして河野道宏医師に決めたかについては後ほど落ち着いたころに話そうと思った。午後2時ごろ家族がやってきた。ふと携帯電話に目をやると着信の光があわただしく点滅していた。チェックしてみると家族からのメールが何通か届いていた。1階のコンビニで昼食を食べているらしい。急いで上着を引っ掛けてエレベーターで1階に向かった。すぐに見つけることができた。昼食を食べ終えた家族と一緒に病室に戻っていった。
病室に戻るとほどなくして担当医がやってきた。
「少し時間が早いのですが、主治医の河野先生に時間ができたので手術前説明を行いますが・・」
「わかりました」
家族とともにブリーフィングルームに入室した。
室内には主治医の河野道宏医師、そして河野医師率いる脳神経外科河野チーム3名の医師、病室担当看護婦リーダーの4名が待機していた。そこれにたった今案内してくれた直接の担当医と家族が加わりちょっと狭い室内は7名で満員となった。着席すると直ぐに説明が始まった。前面の大きなモニターに移った聴神経腫瘍部分が白っぽく写っているMRI画像を見ながら河野先生から詳しく説明していただいた。腕を組みながらじっと聞き入っていた。この態度が後から家族に注意されるとは思わなかった。
「腕組しながら河野先生のお話を聞くのは失礼だよ」
「そうだね、気をつける」
河野先生の説明は素人でもわかりやすく、詳しく、かつ丁寧に説明していただいた。
「四代目の場合、ここのルートで腫瘍にアタックします。ただそのルート上に静脈があるのが普通と違うところで難しい手術です。技術の差が確実に現れます」
「静脈ですか・・・」
「また腫瘍に行き着くためには小脳をヘラで持ち上げるのですが、小脳にストレスを与えないようストップウオッチ2個持ったスタッフが、7分経過したら1分ヘラを戻すようにします。とても面倒くさい事なんですが、この面倒くさい時間をかけることが大切なんです。面倒くさいことに時間をかけけることこそが技術の差にもつながるんです」
はっと思った。
今説明されたことは、家具作りにも通じることだ。いや、家具作りだけでなくあらゆる業種の名人といわれる熟練した職人に通じるものだと思った。自分も家具修理に関して、面倒くさいことを行うことの重要性は理解している。簡単に済まそうとすると往々にして失敗するものであり、時には取り返しのつかない失敗を何回もしたものだ。家具ならば代替できるが、人命となるとそういうわけには行かない。河野先生の説明を聞きながらそんなことも考えていた。その時ふと見たものにある確信を得た。それは顔が写るほどピカピカに磨きこまれた傷ひとつない黒のコインロファーであった。そう、河野先生の靴である。一寸の隙もなく磨きこまれたコインローファー、それを見た途端、「河野先生に決めてよかった。間違いはなかった」と確信した。今まで勤務時間中にこれほどきれいな靴を履いた医師を見たことがなかった。もっと聴神経腫瘍が発見されるまで病院には行ったことがないことを考えれば事実かどうかは少々怪しくなる事柄である。
しかし人生50年の経験の中で出会った人々で、お洒落の基本である足先まで気を使っている人は皆良い人ばかりであった。繊細で、好奇心旺盛、探究心に厚く、とことん突き詰めていく、そしてフレンドリーな人達ばかりであったように思う。きっと河野先生もそうではないかと勝手に想像していた。家族には落ち着いてから話そうと思った。
詳しい手術説明が行われ、何となく静まり返った室内であったが、些細な話題が一瞬その場にいた人達の笑いを誘い、ほんの少し重苦しい空気が流れていくのを感じた。最後に
「難しい手術ですが、明日はがんばりましょう。腫瘍と闘いましょう」
「皆さん明日はよろしくお願いします」
河野先生をはじめスタッフ一人ひとりと硬く握手をしようと考えていたが、いろんなことが渦巻いて言葉を述べるのがやっとであった。
「四代目ですね。ブログ見ました。時々自分の名前で検索しているんです。先日、安田屋家具店というのが検索に引っかかってね、何で家具屋さんという訳で読んだんです」思ってもいなかった言葉を聞き驚いた。河野先生がブログを見つけていたらしい。四代目と同じようにパソコン好きかも知れないと思った。年齢もほぼ同じであり、同じようなパソコン環境を生きてきたわけで、河野先生のブログでの返信作業を見ていて何となく四代目と相通じるものがあるかもしれないと思っていた。やはり細めな返信作業は、好きでないとできない。好きだけでもできない。好きであり、相手の役に立とう、世の中の役に立とうとする強い意思が無ければできないことだと思っている。きっと河野先生も同じなんだろうと思っていると、家族は隣で「ほらっ」というような引き攣った笑顔で私の腕を小突いた。思わず「ありがとうございます。ご指摘部分は直します」というのがやっとの返答であった。
退出する際に再度「よろしく頼みます」と強く言って病室に向かった。
病室までの短い時間、沈黙のまま歩いた。
とても長く感じたが、二十歩ほどの長さであった。
病室に戻っても沈黙が長く続いた。
そして家族が買い物に出かけていった。
担当ナースがやってきた。
「睡眠薬ご用意しますか」
「いや、必要ないです」
「そうですか。手術前で眠れない方用にご用意してありますので必要なときは言ってくださいね」と天使がささやくような心に優しく響く言葉で言ってくれた。心がほんの少し安らぐのを感じた。その後は何事も無く時間だけが刻々と過ぎていった。夕食後に家族は宿泊先の中野サンプラザホテルに帰っていった。一人病室に残り、後数時間で始まる手術への不安と恐怖とひたすら闘っていた。といっても手術そのものは全身麻酔であり、長時間の手術であっても本人はまったく意識が無い時間なので恐怖や不安はまったく無かった。当然生還することを前提にしている。恐怖や不安よりも、少しわくわくした遠足前日のような気分でもあった。初めての手術に対する好奇心のほうが強かった。