とうとうこの訃報を聞いてしまった。
悲しい、悲しすぎる、本当に悲しすぎる日です。
高倉健さんの訃報を聞いて、近い将来この日が来るんじゃないかと心配していたんですが、とうとう来てしまった。来るのが早すぎます。
俳優 菅原文太さんが旅立たれました。 菅原文太さんのような俳優はもうこの先現れないでしょうね。あの独特なドスの利いた声は80歳を超えても健在でした。声を聞いただけで「文太」さんとわかります。最近も「東建です」というテレビCMを見ているので、まだまだご健在と思っていたのになぁー。
それにしても文太兄ぃはカッコいい。
今年4月に無料動画のGYAOで、たまたま菅原文太主演の「仁義なき戦い-代理戦争」が視聴でき、それからレンタルDVDで「仁義なき戦い」全5シリーズ、さらには「新仁義なき戦い」3シリーズの8本を毎週木曜日の定休日に観賞したのです。
いやぁーー、文太兄ぃー、かっこよかったぁー。
「仁義なき戦い」は1973年公開なので、四代目13歳、中学1年生の時です。だから見られなかったのです。映画館の看板見ただけで子供ながらに別世界の話だと思っていました。しかし「仁義なき戦い」のドストライクの年齢でなかったのが残念です。
当時は「健さん派」と「文太派」の二つに分かれていました。お二人とも影響力があったのです。四代目が大好きなテレビドラマ「傷だらけの天使」でも、萩原健一が演じる「木暮修」が、一人息子の名前に「高倉健の(健)と菅原文太の(太)を取って「健太」と名づけた」というセリフを覚えています。
四代目が菅原文太さんを知ったのは、1975年の「トラック野郎-御意見無用」でした。当時15歳、中学3年生の四代目は、映画に夢中になっていた映画小僧でした。ただしもっぱら洋画のみ。日本映画ではこの「トラック野郎」しか見なかったと記憶しています。同級生とその後の全シリーズを東映専門映画館であった「豊富座」に一緒に見に行ったものです。
トラック野郎の星桃次郎役の菅原文太さんはかっこよかったし、ずっこけも愛嬌があって、庶民的で憧れの俳優でした。
2007年に四代目が所属していた岐阜北法人会青年部会の講演に菅原文太さんが来ました。星桃次郎だぁーーと感激、本物だぁーーーと感激しまくり、一番前で聞いていました。当時文太さんは、高山の清見村に住んでおられました。講演後の懇親会にも参加され、その時に四代目が一番最初に「写真いいですか」と聞いて、「いいよ」と即答してもらい、撮ったのがこの一枚です。
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これは四代目の宝物の一つです。
余談ですが、この講演会に清見村からJRで岐阜に来られ、岐阜駅からタクシーに乗った時に運転手に「この辺で雪駄売ってるとこないか」と聞かれて、運転手が連れて行ったのが、安田屋家具店が立地する美殿町にある「小川屋本舗」でした。
なんでも文太さん、普段は雪駄を愛用しているとのお話でした。今履いている雪駄が痛んできたので買い換えようと思ったそうです。小川屋本舗の下に到着した文太さんはタクシーに乗ったままで、マネージャーである奥様が3階の店舗に入り、数点の雪駄を持ってタクシーに戻り、文太さんに見せること数回、そして購入した雪駄を今履いていると話されたんです。
この話を講演会の中で聞いた四代目は、講演会終了後、ふとんのお店すずきやの若旦那に電話して、美殿町マップとガイドブックを急ぎ持ってくるように指示したのでした。事情を知らないすずきやの若旦那でしたが、20分後には持ってきてくれました。
美殿町マップとガイドブックを手にした四代目は、懇親会の始まる前に文太さんとマネージャーの奥様に「今日雪駄を購入されたお店はここです」と美殿町マップとガイドブックを手渡したのでした。いい思い出です。
当時四代目47歳、菅原文太さん74歳。 おおっーーー、偶然にも同じ数字を逆転しただけだ。なんだかすごい、そう思うのは四代目だけでしょうか。
文太兄ぃと同じ時代を生きたことに「ありがとう」
文太兄ぃは、これからもスクリーンの中で永遠に生き続けます。
ご冥福をお祈りします。合掌
12月8日追記
makotosuzuki 様が文太兄ぃーのテレビコマーシャル特集を公開されていますので、在りし日の文太兄ぃーをしばしご覧ください。
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