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聴神経腫瘍手術体験記20

【実録!聴神経腫瘍との闘い】手術終了14

6年前の今日、2011年3月14日は、四代目が聴神経腫瘍摘出手術のために東京警察病院に入院していた日です。手術をしてから6年が経過しました。手術した 右 耳の聴神経はやむなく切断したために聴力はなくなり左耳だけでの生活を過していますが、手術前となんら変わりなく元気に仕事もできることに感謝です。あの 時の体験を自分自身に振り返るために再掲載することにしました。何回もお読みいただく皆様にはしばしお付き合いの程をお願い致します。

尚、河野道宏先生は、2017年現在「東京医科大学病院」にて診察、手術を行われています。

これ以降の体験内容はすべて四代目自身の体験です。自分自身の記憶として作成したものです。手術後の状態は千差万別ですので必ずしも同じ状態になるとは限らないことをご理解ください。ただ聴神経腫瘍摘出手術を行う人の何かの役に立てればと思います。

2011年3月14日 手術後11日目

6時30分起床
外界は4月中旬の陽気らしい。
室温、湿度とも一定の病室内ではまったくわからない。

今朝6時20分から「計画停電」を行う事態に外界がなっていたことに驚く。東北地方の大地震による災害によって、ジワリと都心の脆弱さが現れてきた。津波による原発停止により電力供給量が不足するらしい。とてつもない事態になっていた。都心の電車はあまり動いていない。各駅とも駅への入場制限をして、ホームはもとより駅周りの道路まで人が並んでいるらしい。都心の通勤・通学は大変な事態になっている。電力不足により、トヨタなどの自動車生産も生産を中止した。

10時トイレの便座に座っていると揺れた。地震だ。震度3。

午前中

10時30分、3回目のシャワータイム。

もちろん首下のみのシャワー。念入りに石鹸で身体を洗いリフレッシュ。下着も替えて心身ともにリフレッシュ。11時に1階コンビニに買出し。ここにも地震の影響が出ていた。コンビニのショーケース照明はすべて消していた。弁当などは以前とほぼ同じ程度そろっていた。ただペットボトルの水が無かった。病院1階が薄暗いことに気がついた。節電として天井灯の一部が消されていた。病室に戻り、個人でもできることと思い、病室の室内灯を消した。小さなことだが、国難を乗り切るために必要なこと。

病室に来たナースが言った
「昨日のスーパーには食べ物がほとんど売ってなくて大変だった」
「お米もお肉も無かった」
「カップ麺も無かった」

病院の外では大変なことが現実的に起きている。
携帯ラジオ、電池が品切れとなっている。つい先日まで見向きもされない山積みの商品として売っていたものが全国から消えた。
ナースの日勤・夜勤のシフトが、出勤できない人もいて大変らしい。なんとかやりくりしていることに感謝。こんな時に入院して平穏に回復にだけ努めている自分が恥ずかしい。被災した東北の人々に申し訳ない気分でいっぱいになる。地震はやってきた。見守るしかできない。


ラウンジにいると2~3日前に聴神経摘出手術を終えたばかりで、点滴の支柱を手に歩いている人、頭の圧迫包帯も取れ数日後に退院予定の人を見かけた。ここ東京警察病院には、河野道宏先生を頼って全国から老若男女が集まっている。同じ病気での検査入院、手術前、手術直後、手術1週間、2週間、退院前と様々な時点での入院患者を見る。聴神経腫瘍が10万人に1人というきわめて発症確率の低い病気ではなく、ごくどこにでもある病気だと錯覚してしまうほどだ。それほど皆、河野道宏先生を頼ってきていることがわかる。

ラウンジから見える風景

中野サンプラザの向こうには「新宿副都心」の高層ビル群が見えます。東京都庁も見えます。でもここに今建設中の大学が建つと、もう見えなくなることでしょう。残念。

午後

処方されていたステロイド錠が2錠に減った。

夕方6時50分、手術着姿の河野道宏先生が病室にやってきた。何回も診に来てくれる。今までに何回来たのだろうか。ありがたい。病室内は同じ聴神経腫瘍を摘出した者ばかり。各人の回復ぶりを確認しに来られた。それにしても手術着姿とは、先ほどまで手術をしていたのだろうか。体力的、肉体的、精神的にタフだと思った。とても真似はできない。

ラジオのイヤホンが一つ壊れているのに気がつく。部品を探すが見当たらない。ふと腫瘍を摘出した右耳を探ってみた。指先の感触で右耳に外れたイヤホンの部品があることに気づく。触るまでまったくわからなかった。完全失聴とはこういうことかとはじめて知った瞬間であった。

3月 14, 2017 · Posted in 聴神経腫瘍摘出 手術体験談  
    

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