2011年3月1日は、四代目が聴神経腫瘍摘出手術のために東京警察病院に入院した日です。手術をしてからとうとう10年以上が経過しました。手術した右耳の聴神経はやむなく切断したために聴力はなくなり左耳だけでの生活を過していますが、手術前となんら変わりなく元気に仕事もできることに感謝です。あの時の体験を自分自身に振り返るために再掲載することにしました。毎年何回もお読みいただく皆様にはしばしお付き合いの程をお願い致します。
2011年3月1日
昨年8月末に発見された四代目の「聴神経腫瘍摘」。
経過観察、放射線治療(ガンマナイフ・サイバーナイフ)、摘出外科手術の3方法の中から四代目自身が選択した「摘出外科手術」のために3月1日の早朝、自宅を出発した。入院時間は10時30分と言われていたのを1時間遅らしてもらった。初日は何もないようなので早く行っても仕方がないと思ったからである。旅費を少しでもチープにするため「東海JRツアーズ」の【ぷらっとこだま】を利用した。岐阜から中野まで8千円少々である。
自宅を少しはやめの6時30分に出た。名古屋駅7時54分発のこだまに乗車する。同時刻の「のぞみ」に乗車すれば9時40分には東京駅に着き、10時には東京警察病院に着いてしまう。岐阜の自宅からわずか2時間少々で東京中野に着いてしまうわけだ。ちょっと昔で考えればドラえもんの「どこでもドア」のような感じたなと思った。ただこれはもう旅行ではなく、単なる物体移動、さながら人間宅配便のようなもんだとニヤリとした。スピードが速くなり便利になった反面、失うものも大きいように思う。旅、人とのふれあい、流れ行く風景、時間、人情・・・・。昔と今とどちらがよいのかはわからない。もっとも時間をかけて旅行するならば普通列車を選択することもできるわけだ。ただ誰も選択はしないだろう。「時は金なり」そんな文字が頭の中に浮かんだ。
名古屋駅7時54分発のこだまに乗車して約2時間30分で東京駅着。
新幹線の改札を出て、1番ホームの中央線を目指して歩く。1ヵ月分の着替えが入った大きなスポーツバックとノートパソコン類が入ったショルダーバックはとても持ち難く、歩きにくかった。なんとか中央線ホームにたどり着き止っていた電車に飛び乗った。幸運にも待つこともなく直ぐに発車。約20分前後で中野に到着。28年ぶりに第二の故郷に戻ってきたのだ。
32年前の18歳から22歳までの大学生活四年間を過ごした中野である。しばらく干渉にふけって中野駅南口に降り立った。
大学四年間は、下宿先であった練馬区豊玉に向かう京王バスに乗車するためほぼ毎日南口を利用していたのである。大きくは変わっていなかったが、かつて毎日立ち寄ったカレー屋、蕎麦屋、定食屋はなくなっていた。
丸井はリフレッシュしてオープンしたばかりで真新しかった。「また今度と、幽霊は出たことがない」という名せりふを言った呼び込みがいたスナックは無くなっていた。美味くはなかったがチープでボリュームがあったカレー屋、なんていう店名だったか「牛友チェーン」そんな名前だったように思うが、ビルの5階にあったのだが無くなっていた。さらに歩いた突き当たりにあった猥雑な映画を上映していた映画館は更地になっていた。
そういえばこの映画館は美殿町にある下駄屋「小川屋本舗」の若旦那も知っていた。なんでも同時期に中野坂上に住んでいたらしい。彼も通っていたのであろうか。フフフと笑みがこぼれた。
その映画館の前に「つけ麺大王」という初代つけ麺ブームのチェーン店があった。店名は変わっていたが、今でもつけ麺店として営業していた。しかしこのつけ麺はどうも好きになれない。始めてこの店で食べて「何だこれは」と思って以来、二度と食べたことがない。ざるそばやざるうどんは好きだが、つけ麺はどうしても好きになれない。多分これからも・・・・。
そんなことを思いつつ町並みを眺めるとずいぶん換わったことに気がついた。建物自体に変化はないものの、よく通った定食屋、当時流行した貸しレコード屋などはことごとく無くなっていた。今も変わらず当時のままなのはカーテン・カーペット店、そしてなんと32年も続いている「どさん子ラーメン」店が目に入った。
懐かしさに身震いした。大学帰りの夜、ここで味噌ラーメンや野菜炒め定食を食べながらテレビドラマ「西部警察」などをよく見たことを懐かしく思い、思わず顔が緩むのを感じた。
東京警察病院のある中野北口に向かう。北口にはほとんど行ったことがなかったので32年前と比べて何も変わっていないように思えた。ただ一度通ったことがある英語学校は無くなっていた。
中野ブロードウェイを歩く。ここはずいぶんと変わり、飲食店が格段に増えていた。当時はショートブーツを買いに訪れた程度であまり思い出の中に残されてい ない区域である。
中野ブロードウェイを途中で出て、中野サンプラザ前を過ぎる。早稲田通りに出たところを左折。丸井の本社ビルを過ぎしばらく歩くと東京警察病院に到着した。32年前は警察大学校であった場所らしい。記憶の中にはなかった。
入院窓口で受付を済まし、病室である5階に向かう。若々しい看護婦さんに案内されて4人部屋に向かった。今日は午後から麻酔科で全身麻酔の説明を受けるだけであった。レンタルで頼んでいたイーモバイルの接続機器は明日しか届かないので、今日一日は買い込んだ小説を読むこととした。
携帯電話に目をやると着信ランプ。見てみるとメールが数通届いていた。なんとインターネットショッピングモール「ぎふ楽市楽座」の安田屋家具店に2件の注文が入っていることを告げる内容であった。美殿町のおふとんのお店 すずきやの若旦那にすかさずメールを打ち込み依頼内容を送信。折り返し快諾の返信が届き安堵する。3月1日から始まった「カゴメ野菜生活」(お気に入りの椅子編)テレビコマーシャルの影響なのか、ハンギングチェアー・スタンドセットの注文が入っていて驚いた。高額商品である。直ぐに電話で工場に発注を指示。顧客へのメールはすずきやの若旦那がすでにやってくれていたのでそのままにしておいた。
昼食後、まったりと小説を読んでいると麻酔科に行くよう案内があった。1階の麻酔科に向かう。医師と看護師の二人が待っていてくれた。全身麻酔の仕方、全身麻酔の危険性などについての説明が行われた。説明を聞いている中で「聴神経腫瘍」が発見される前までには普通のことだと思っていたことに微妙にニュアンスが変わったことに気がついた。特に危険性の説明の中で、
「全身麻酔にはさまざまな危険性があります。中には脳腫瘍になったりして生命に危険な場合もあります。ただ症例としては10万人に1人という極めて低い確率なので起こりにくいことなのでご安心ください。ただそのような危険な場合もあることを理解下さい」
今までなら10万人に1人の確立であれば気にしなかったのであるが、発見された「聴神経腫瘍」は年間約10万人に1人で発症する難病である。つまり四代目はすでに10万人に1人に当たったのである。確率はさらに低くなるもののまたも大当たりしてしまったらと考えるとゾクゾクっと背筋が冷たくなった。しかしそれよりも全身麻酔の説明で意外な事実に驚愕した。
「手術が終わって全身麻酔をやめると約15分~20分程度で麻酔が覚めます」
「えっ、麻酔から覚めるんですか」
「はい」
それまでテレビなどで見た光景として手術後は半日以上麻酔から覚めずに眠り続けているものだとばかり思っていた。それが術後直ぐに目が覚めるとは想像にしていなかったことである。不安が脳裏を横切った。思わず小声で「いやだぁ」と呟いてしまった。術後の状態がまったく想像できない今は不安と恐怖が入り混じって襲ってくる。打ち勝てるだろうか。拳を握り締めたまま麻酔科室を出て病室に戻った。悟られぬように平静を保ってはいたが、おそらく顔は半分引き攣っていたのではないかと思う。その後は何事もなく一日が暗闇につつまれていった。早朝からの行動で疲れたのか、消灯時間の9時にはウトウトと眠りについていた。
« 元に戻る